『光の風景03』 - 金色に反射する細長い棒が、擂鉢状に円を描いて規則正しく並べられている。それは一見して、地面から光が湧きだし、放射するさまを思わせることだろう。最も高い外周部でも腰の高さに満たない点は、作品のはらむ動きが床のひろがりに即したものであることを印象づけるが、同時に、最も低くなった中央部でも棒は宙に浮いており、その動きに浮遊感や軽快さがもたらされることになる。棒の数は一目で了解できないだけの多さで、しかし長さはすべて等しい点も、中央部が空洞をなす点と相まって、作品が環境と拮抗する異物ではなく、環境と嵌入しあう、あるいは環境自体に内在するものであることを物語っている。この作品が発表された二〇〇三年十二月の個展では、同様の金色の棒の配置が海だか湖の水面から湧きあがるというコンピューター・グラフィックスが三点展示されていたが、これらもまた棒の円が、地面であれ水面であれ、いかなる地勢にも遍在しうることを告げているのだろう。金色の棒からなる円がただちに光輪なり後光を連想させるとすれば、それを、大地や水の聖性を言祝ぐ曼陀羅と見なすこともできるかもしれない。
他方棒の円は、完全に環境に溶けいるわけではない。これが精確に幾何学的な細長い円柱だったなら、そんな風に映りもしただろうか。しかし実際には、丸みを帯びていもすれば、手でこねた跡が残ったかのようなゆるやかな起伏に波だってもいる。強く存在を主張するというのではないが、むしろ柔らかなうごめきをたたえた生動感とともに、それらは現前している。
こうした棒のあり方を支えているのが、線状の四角錐をなす台座だ。細い線からなり、グレーに塗装されることでおのれを消去しようとしつつ、同時にその幾何学性は、棒の柔らかさと対比されている。とりわけ底面をなす正方形の連なりは、全体の円形に重層的な構造をもたらすこととなる。円の重層性はさらに、照明が落とす棒および台座の影によって、いっそう錯綜したものと化することだろう。床に映る影はまた、宙に浮く棒を床に引きとめると同時に、それらの配置から生じたひろがりを拡張してもいる。棒、台座、影、そしてそれらを擁する環境と、それぞれ存在感のレヴェルや色・質感を異にしつつ、重なりあい組みあわされることで、単なる物体でも仮象でもない何かが、空間に現われ、浸透し、滞留しているのだ。
山本莞二が真鍮を素材に制作するようになったのは一九八〇年頃からということだが、その際真鍮は、大きく二様の形をとる。一つはこれまで見てきたような棒状の形態、もう一つはささくれた金網状のものだ。前者はやはり上述のような比較的単純な形の場合と、より有機的に生動する場合があるが、ともに金色に磨きだされる。後者ではいったん塗装された上で、先端のみ金色に磨きあげられる。いずれにせよ真鍮は、量塊や面としてではなく線として扱われ、そのため空間を占有するというよりは、透過させることになる。
また作品全体は、円であったり囲い状をなしたり、あるいは同じ形が反復されたりするとして、幾何学的な形態をとることが多い。
ここにミニマル・アートの語法を読みとることができるが、しかし作品は、見る者の視線と相対峙しはしない。一方でおのが線状の形態に沿って視線を滑らせ、あるいは網の目の間をくぐらせつつ、同時に、金色の輝きや先に見た表面の起伏によって、目の動きは制動をかけられてしまう。視線は、全体を把握しようとする遠隔的な位置と、細部に留まろうとする近接した位置との間をたえず往還させられ、やがて空間を組織する網の目自体と一致させられることだろう。そして真鍮もまた、この空間の網の目と一如にほかなるまい。その際、台座のあり方をふくむ床との関係がつねに意識され、作品とそれが位置する空間とが乖離することはない。あるいは、からっぽの空間がはらむさまざまな変移を仮にあらわにするのが、これらの作品の機能だといえるだろうか。
石崎勝基(三重県立美術館学芸員)